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2007年11月19日(月) 天気 : 晴れ
沖縄 高知県戦没者慰霊祭に出席
11月16日 沖縄で高知県戦没者慰霊祭に議長代理で出席
県議になってから毎年のように沖縄を訪れているが、県の慰霊祭には2度目の参加であった。
沖縄本島の南の端、具志頭村(現八重瀬町)の丘の上、南シナ海、摩文仁の丘が見渡せる場所に高知県戦没者慰霊塔「土佐の塔」がある。
沖縄戦で戦没された832名、並びに南方戦線で戦没された17,713名、計18,545名の霊をお祭りしてあり、毎年、高知県遺族会主催の慰霊祭が行われている。
今年は議長代理として「追悼の辞」を捧げた。(写真上段左)
県からは知事代理として畠中健康福祉部長が町村議長会を代表して坂本会長が出席された。
毎年地元からも沖縄県知事代理、県議会議長代理のほか、地元八重瀬町中村町長はじめ3役、八重瀬町議会議長、地元遺族会代表、地元住民代表等、たくさんの方が参列していただいている。
現地に午前9時過ぎに到着、午前10時開会予定の慰霊祭の準備を待つ間、断崖の上から景色を眺めていると八重瀬町の住民であろう男性から話しかけられた。
話が沖縄戦に及ぶと「私は4歳の時に母に背負われて、この下の海岸を逃げたそうです。この辺りは死体だらけで、戦後も遺骨収集は長い間行われた。自分たちが川で泳いでいると、川底にはいくつもの頭蓋骨があった。」という悲惨な話を聞いた。
日本軍は首里攻防戦で敗れると、豪雨の中、米軍の包囲網をくぐり抜け沖縄南部のこの一帯に移動して摩文仁の丘に司令部を移動した。
しかし、ここら一帯はすでに多くの沖縄住民が避難しており、それに加えて軍を追って住民も避難したため、沖縄戦で最も住民の被害が多かった場所である。
土佐の塔と隣の山梨県の慰霊塔の間に沖縄戦の犠牲になった具志頭村の住民の名を刻んだ碑があり、その数は約2千3百名にのぼる。
今年は沖縄戦の集団自決に関する教科書記述変更問題もあり、慶良間列島を訪ねようと思っていたが、朝9時頃の船便しかなく行くことが出来なかったが、慰霊祭終了後は遺族会の皆様と共に、日本軍最後の地となった摩文仁の丘、沖縄県平和記念資料館、ひめゆりの塔を訪れた。
摩文仁の丘と沖縄県平和記念資料館は土佐の塔から車で5〜6分の距離である。沖縄には全国46都道府県の慰霊塔があり、その多くが摩文仁の丘にある。高知県と山梨県が隣り合わせで旧具志頭村にあり、高知県の慰霊塔は昭和41年の建立である。
摩文仁の丘を訪れたのは2度目であったがすっかり忘れていた。頂上近くに沖縄守備隊司令官牛島満陸軍中将、参謀長長勇陸軍中将が昭和20年6月23日に自決された壕の入り口がある。この日をもって沖縄戦の組織的抵抗は終わった。
平和記念資料館は3度目であったがここの売店で一冊の本が目に止まった。大田昌秀 編著「写真記録 これが沖縄戦だ」(那覇出版社)という本だ(写真上段右の本)。米軍の記録写真を丹念に編集し、記述も相当の分量があり、昨夜やっと読み終えた。
沖縄戦に関心のある方は是非一読を薦める。
この本の中に、小さな女の子が白旗を括り付けた棒を担いだ写真があり、この写真は何度か見ていたが、この写真に写っている子は戦場でどんな目に合い、戦後どんな人生を送っただろうかと考えていた。
帰りの那覇空港の売店で、機内で読む雑誌でも買おうかと本を探しているとこの少女が写っている本があった。それが写真中段左の本 比嘉富子 著「白旗の少女」(講談社 青い鳥文庫)である。何と本人が書いた本であった。初めは1989年(昭和64年)に単行本になり、2000年3月に文庫本になっていた。この方は昭和62年に名乗り出て、テレビなどでも取り上げられ私の妻は知っていたが、私は全く知らなかった。
当時6歳の少女が二人の姉と共に激戦地首里から摩文仁をめざして避難する途中、姉とはぐれてたった一人で45日近くも激戦地をさまよい歩いて生きていたことは奇跡に近い。
ここにも沖縄戦の悲劇が生々しく書かれている。
平和記念資料館の後、「ひめゆりの塔」を初めて訪れた。
下の写真が記念碑である。正面がひめゆり部隊の戦没者名簿を刻んだ石碑、右に「ひめゆりの塔」、左に「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」と刻まれた石碑があった。
いうまでもなく沖縄県内の女学校生581名で組織されたひめゆり部隊の壕である。看護要員として戦場に投入され、その内334名、実に6割が戦死されている。
女学生の部隊は他に白梅学徒隊もあった。
また、男子中学生も「鉄血勤王隊」として戦場へ投入され多くの戦死者を出している。
未成年の民間人が軍人と共に闘い、戦死していったのである。おそらく近代世界戦史でもまれな事例であろう。
この空港売店では探し求めてあきらめていた曽野綾子 著「沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実」も見つけた。こちらはまだ読み終えていない。
今回の沖縄訪問は慶良間列島の集団自決事件をこのホームページでも3回にわたって書いた事もあり戦跡訪問を念頭においていたが、偶然探し求めていた本にも出会い感慨深い訪問であった。
私が沖縄戦を最初に調べだしたのが高校生の頃であったと思う。
今沖縄訪問を終えて思うことは、集団自決の記述云々はこれまで書いたとおりだが、沖縄戦を長期戦としたことによって本土決戦が避けられた事実、沖縄戦は望むと望まないとにかかわらず多くの沖縄住民(約15万人)が犠牲になった事実、戦後も長く米国の管理下にあり、いまだに多くの米軍基地がある事実、これらの事実をふまえた上で沖縄県民の気持ちを考えることが大切であると、あらためて考えている。
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